学ぶことのよろこび
最近英語教室に通い始めました。
英語は何となく出来るのですが、何となくすぎて困っていました。使わないでいたことで、話すことや書くことへの自信も無くなってきていたので、これはよいチャンス!
クラスメイトも素敵な方ばかりで、嬉しい時間を過ごしています。
何よりも、一週間に少しだけでも、自分の習い事に使える時間を持てるという幸せ。これは勉強をしなくちゃ~という感覚の時代には考えられなかった、人生の変化です。
近頃は子どもがいくつもの習い事をして忙しいと聞くことがありますが・・本人が習いたくてしているのならそれでよいとは思いますが、あえて親が将来のために、とか先回りして習わせる必要ってあるのかなぁと思ったりします。
色々やらせてみて何かコレといったものを見つけて欲しい、とか、子どものうちに習ったほうが吸収力がある、とか、私も考えたりもしますが。。
やらされ感も、大人になったら感謝に変わることもあるので何とも言えませんが、自分は、やりたくない相手に何かをさせるための気力体力があまりないということに気づいたので、だったら自分がしたいことをしよう!と自分が習い事を始めることにしたのでした😃
学ぶことのよろこびを感じながら。
あうんの由来と今とこれから
前々からの知り合いも、親戚などもいない、新しい地域に私たちが移住をすることに決めたとき、
ちょうどこんな感じがいいね、と考えていたとおりの物件が見つかり、
それまで営んでいた鍼灸院を同じ勉強会の先生に引き継いでもらうという幸運にも恵まれ、
たまたま全ての流れが、用意されていたように、不思議とうまくおさまっていき、無事に新生活が始まりました。もうあれから早いもので2年半が経とうとしています。
1年かけて、夫は週の半分東京に通いつつ、こちらで手作りの治療院を整え、晴れて2017年4月に「はり灸あうん」オープン。
その名前の由来ですが、、
東京の治療院での、とある昼休み。
心機一転、治療院の名前も変えようか。と話しながら、あーだこーだ、ゆるゆる考えていたとき、ふと夫が伸びをしながら「あうん」と言いました。
「お!それいいね👍」ということで決まった、
あれ、そんな短い話でした。。😅
「あうん」とは
Wikipediaによると、
ーーーーー以外引用ーーーーー
阿吽(あうん、サンスクリット語: अहूँ 、a-hūṃ)は仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。
また、宇宙のほかにも、前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃にたとえる場合もある。
次いで、対となる物を表す用語としても使用された。特に狛犬や仁王、沖縄のシーサーなど、一対で存在する宗教的な像のモチーフとされた。口が開いている方を阿形(あぎょう)、閉じている方を吽形(うんぎょう)と言う。
転じて、2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などと呼ぶ。
ーーーーー引用終わりーーーーー
夫婦という陰と陽の対を為す私たちが、
同じ目標に向かって進んでいくさまと
人の一生の初めから終わりまで、からだを整えるということに寄り添える仕事
そんなふうに、「あうん」という名から連想しています。
東京では、夫の治療院にあとからやってきて、補佐的な気持ちが強く、途中、妊娠、出産もあり、いつもなかなか前に進めずにいました。鍼の威力をからだで知っているからこそ、怖くて尻込みしてしまうこともあったり。
「治療家」というカタイ感じに緊張してしまう私は、勝手に変なプレッシャーを抱いたり、落ち込んだり。
でも、いろいろな治療の仕方を見て感じて、気の捉え方を勉強して、さまざまなインプットを通じて、今があります。やっとここに来て、今、アウトプットしていこうという気持ちが芽生えてきています。ずっと自由に、アウトプットしていいと言われてはいるのですけどね。。
今、少しずつ新しい一歩の準備を進めています。暑くてなかなか動きが鈍いものの、少しずつ、少しずつ、前へ。
空と海
海をみていると、毎日毎日がかけがえのないものだと感じます。空もそう。
今と同じ海、同じ空は二度とない。
儚さと愛しさとが混在するここち。
空と海の織り成す色に魅了されます。
今日という一日に、ありがとう。
子ども同士のけんかと、私。
日常のなかで心が乱れることのひとつに、
子ども同士のけんか というものがあります。
元気でなにより、と思いつつも、
雨の日に朝からやられると、参ってしまいます💦
そもそも、争いや騒音のなかに身を置くのが苦しい。その私の苦しさを大きくしてしまうと、泣き声と叫び声を聞くだけで、止めてくれ~!とげんなりしてきます。
けれど、そもそものそもそもに立ち返り。
けんかをしてはいけない
いつも仲良くしないといけない
そう言われて育つと、けんかをいけないものと思い、けんかを嫌悪するようになる。結果、表面的には穏やかでも心の奥に怒りや不満を溜め込んでしまうこともあるかもしれない。自分を振り返ると、そんなふうに大人になってしまったのかもなあ。
だけど本当はただ、意見の相違があるだけで、子どもたちは自分の心に素直に、それを表現しているだけなのかもしれない。
表現力が十分になくて、イライラして「イヤだ~!」という叫び声や、叩くという行為になってしまうだけで、相手を実際に憎んだり傷つけたいというのとは違うのかもしれない。
或いはただ、ヒマで騒ぎたいだけなのかもしれない。
そう思うと、そこを大人の世界の「正義」で押さえつけるのではなく、子どもの頃は特にたくさんけんかをして、話し合ったり、意見を言う機会を出来るだけもったほうが良いのかもしれない、とも思うのです。(過度なものは仲裁しつつ)
そう考えていくと、けんかはダメ!じゃなくて、喧嘩上等!となるのだが・・・💦
私の好みや価値観を一旦置いておいて、客観的に状況をみて、彼女たちの意見や心の声を引き出すことができたら、いいなあと思うのですが、これがなかなか難しい。
けんかがなくて、
仲良くにこにこが、やっぱり嬉しいから。
でも、
けんかをしてもいいんだよ、とは言える自分でいたいなあ、とも思うのです。
それにはやっぱり自分の、乱れてしまうと感じる心に向き合うということが課題なのですね。
(問題と思われていた子ども同士のけんかというのはひとつのきっかけであって、じつは自分の問題だということ。。)
趣味、ストレス発散、ヨガや瞑想、自律神経を整える穏やかなはり治療。。
いろいろな方法で、心をケアして自分への優しさをもつことが必要!
私自身への課題ではありますが、人にも、話を聴くことや治療を通して、心を元気にするお手伝いがしたいなぁ、と思います。